~ヨーガは生き方のレッスン~ まいまい(昧舞)ブログ

アルジュナヨーガ研修会主宰 渡辺昧比のブログ
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統合医療への道1

9月 26th, 2011 Posted in 統合医療への道 Tags:

統合医療への道のりを考えるとき、母方の祖母の影響は大きい。祖母は、直ぐ上の仲の良い兄が医者のなったのもつかの間、夭折したのがショックで、当時(1910年代後半)数少ない看護婦になった。薬草などにも興味を持ち、待ち前の努力で、今で言う、代替医療の走りを自分なりに研究・実践していた。

鬼子母神

母は祖母の長女として生まれたが、ひどく病弱であった。当時の医学では良くなく見込みがないため、日蓮宗に帰依していた祖母は『鬼子母神』で太鼓をたたきながら町中を歩いた。

『鬼子母神』とは、インドに伝わる話によれば、初めハーリーティ(訶梨帝母)という夜叉で、1000人の子供の母だったが、しばしば人の子をとって食べていた。そこで、ある時お釈迦さまは彼女が改心するようにと、一番可愛がっている一番末の子の愛奴(あいぬ)を隠した。

ハーリーティは気も狂わんばかりにその子を探し回るが見つからない。お釈迦さまが現れて、「子供がいなくなるということがどんなにつらいものかわかったか。お前の今までの悪行を反省するが良い」と諭した。心を入れ替えたハーリーティは仏道に帰依し、子供を守り、安産をさせてくれる慈愛の仏、鬼子母神となった。

日本では、法華経では、鬼子母神は法華経を読誦し受持する神とされていて、鬼子母神を祀る寺としては、日蓮宗系のところが多い。

その後の母の健康

その後の母は、何とか、大病せずに成長した。これには、時代的背景(乗り物がないので、1時間くらいは歩くのが当然)、家庭環境(鰹節屋を営んでいたため食べ物には気を配る、衣・食など多くは手作りのもの)などが影響していると思われる。

様々な健康酒や体に良いとされる健康法を探る姿勢はそのまま、母に受け継がれた。

母は20歳過ぎに結婚し、私が生まれたが、私もまた、病弱であった。出産のときも「母が命を落とすか、私が死産か、二人とも無理かもしれない」といわれた中で、私が生まれ、母も何とか事なきを得たことは奇跡に近いことだったらしい。

この背景には、祖母の命がけの『祈り』があったことは言うまでもない。『祈り』は、最近では、米国を中心として代替医療(ここでは簡単に「西洋医学以外の医療」と述べるにとどまる)で注目されている。例えば2002年の米国(ミシガン州を除く)での調査では、代替医療利用状況は第1位「自身による祈り43%」で第2位は「他者による祈り24.4%」となっている。ただし、日本では現在、『祈り』の調査項目はない。

私の病弱な幼少期から成人へ

幼少期も私は、引き続き病弱であった。遠足や運動会の前には、いつも担任の先生が、「今回は参加できるか?」と尋ね、参加する場合も、叔母や祖母が付き添いという、今考えると、ご大層な身分であった(笑い)

このような私が、父の転勤で北海道の函館から大阪へ引っ越すことになった。周囲の反対・心配は大変なものだったらしい。北海道に比べるとかなり長い夏休みのほとんどは、大阪を離れて函館の母の実家で暮らした。

何が功を奏したのか、私は次第に元気になった。更に成長するにつれ、生意気にもなっていった。時にうんざりするほど祖母に言われた「ご先祖様を大切に」「丁寧に生きる」は、青春の真っ只中を行く私には、重く、うるさく感じられ、次第にこともあろうか、「現代の魔力」や「西洋科学のすばらしさ」に惹かれていった。

大学でフランス文学専攻、部活では現代文学研究会に所属し、卒業後には新聞社勤務ということも影響したかもしれない。しかしその後、大きな挫折を経て20歳代後半で私は「西洋から東洋へ」と大転換をすることになる。

例えば、「食物と血液」を研究し「病氣はライフスタイル(食生活・環境・心)の乱れによって発症する(食因説)」と言って、御茶ノ水クリニックを開業した、『国際自然医学会』会長の森下敬一博士、『血液腸管製造説』を提唱した岐阜大学の千島喜久男教授、大阪大学教授で『酸塩基平衡学』を提唱した片瀬淡博士、同じく大阪大学教授で『有害食品研究会』や後の『日本アーユルヴェーダ学会』を立ち上げた丸山博博士、『国際宗教・超心理学会』の本山博博士、京都精華大学名誉教授で『意味論』の研究や『アレクサンダー・テクニーク』を日本に導入した片桐ユズル教授。もちろん、ヨーガの恩師、日本ヨーガ禅道友会会長の、大阪大学名誉教授、佐保田鶴治博士との出会いの意味と影響は測り知れないほど大きい。

これらの『西洋から東洋への大転換』については、順次、次回以降でお伝えします。

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