≪無事ということ≫
新春のお茶室には、≪無事≫と書かれた掛軸、《無事》という銘の入った茶道具が多い。
私も、以前、《無事》と書かれた掛軸を拝見したことがある。
その時は、単純に「昨年、いろいろあったけれど、結局、何とか『ことなしで済ますことができて有り難い』と、過ぎた一年に感謝し、今年もそうでありますようにとの願いをこめた言葉」と思った。
しかしある時、「禅でいう《無事》とは、何か?」という《茶禅一致》の言葉が浮かんだ。
《無事》とは、臨済宗の開祖である唐の臨済義玄(りんざいぎげん)の言行を弟子の三聖慧然が編集したとされる『臨済宗』で説かれる語であり、「何ものにもとらわれない、計らいの無い、造作のない、あるがままの状態」を言う。
というのは、「人は本来的に仏であり、求めるべき仏はない」ので、「外に向かって道や仏を求めたり、造作する必要はない。何故なら、心を外に向けると、欲望・煩悩が尽きず、平静になれない」からである。
この禅思想の背景には、中国、道教の「無為自然」の思想があると言われる。
しかし、私たちヨーガ者から見ると、ヨーガのバイブルと言われる『ヨーガ・スートラ』には、「ヨーガとは、心の働きを止滅させることである」と書かれており、禅宗の≪無事≫と求めるところは同じである。
心の揺れは、心を外に向けることから起こり、内面に向けて心の揺れを制止できたら、「ヨーガは完成」と言える。
私たちは、日本ヨーガ禅道友会初代会長で、大阪大学名誉教授の佐保田鶴治先生の教え(世間からは、『佐保田ヨーガ』と言われる)を元に、アーサナ(ヨーガの体操)を動くメディテーション《動禅》として行い、体と心とスピリチュアリティーを滑らかに統合させながら心の揺れを少なくし、自己を再構築する作業をきわめて自然に行っている。
その結果、「怒らないのではなく、怒れなくなる」ように少しずつ変化する。これは決して、自分を抑えて「怒りたいけれど、怒らない」のではなく、「怒る気にならなくなる」のである。どうしても相手に言いたいことは、落ち着いて言えばいいだけである。
もう一つ、私にとっては、今年の《学び》として《無事》に関連のあることでは、「造作をしない」ことも重要項目となった。
さまざまなことを通して、過剰に反応することは、心が波打っている証拠である。騒がしい中で、大声で「うるさい」と言っても静かにはならない。《事があった》としても、《無事》へ向かう人がいれば、一時、波が大きくなったとしても船はひっくり返らず、やがて、静けさが訪れるだろう。
早急に、白黒をつけず、自他の関係を見直し、聞き直し、時と言う大きな流れの中で、出会いを大切にし、ニュートラルに、接点を見つける努力をしたいと思う。
相手と全く同じことはありえない。たとえ一つでも、接点がもてたら、それを大切にするには、心が深く、広いことが前提である。
ヨーガを友として、さまざまな出来事に対し、「征服」したり、「相手に勝つ」のではなく、自己成長の《学び》《自分の繕いなおし》として、それぞれの道を歩く人々と、道のルールを守りながら、楽しく歩きたいと思う。
出会う人は、みな、《学び》の人である。
2012年1月1日
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[皆既日食]
ヨーガの一番の目的は、心が変化することです。自然との一体感や宇宙意識の体験は、その人の内面を深め、その後の人生を豊かにします。