≪三陸ワカメ養殖家のおもい…≫
速水御舟「桃花」山種美術館
東北、三陸海岸のワカメ養殖が一部再開に踏み出したと言うニュースがテレビで流れ、少しホッとした。すでにワカメの新芽“早採りワカメ”は放射能測定を経て、出荷が始まっている。
それ以前、ワカメの養殖に関わっていた人の話が紹介されていた。寒い東北の海の中に腰から胸まで浸かりながら、その人は淡々と語った。
こうしてワカメの種付けをしても、例年通り出来るとは限らない。むしろ出来ない可能性の方が多い。自分も年だし、何時、放射能の被害が出るかも知れない。しかし、自分が倒れても、後に続く若い人たちが収穫できれば、自分は幸せだ。むしろ、そうなってほしい。
『絆』はここ一年、多く使われる言葉の一つであるが、人に何かを託す『絆』は深い喜びをもたらす。これに関連した言葉として、二宮尊徳に次の言葉がある。
この秋は 雨か嵐か 知らねども 今日のつとめの 田草とるなり 二宮尊徳
この短歌は江戸時代の農学者、二宮尊徳の作である。
「秋になると天候次第で稲がどうなるかわからないが、今は目の前の雑草を取り除くことが大事」という解釈は言葉通りの意味。
特に昨年のような、震災・放射能問題を始め数々の思いがけない大惨事が多発した昨今は、「今、目前にある課題に一つ一つ着実に取り組むことが大切。」「今やるべきことに全力を尽くすことが大事」と政界人を始め、多くの人々に引用されている。
将来のことは誰にも分からない。特に昨今は大変な惨事が待ち構えているかもしれないことを、多くの人は不安に思っている。
このため、投げやりになったり、眼をそらしがちである。また、「何とかなる」と思おうと能天気になったりする気持ちも分からないではないが、それでも、この歌に深い意味、一つの指針を感じる。
このような何が起こるかわからないと言う不安は、他人だけではなく自分の身にも充分起こる可能性がある。自分が田草を取って育てた稲を自分は食べられないかもしれない。それでも、≪自分は田草を取る≫という行為は、周囲の人々、後に続く人たちとの連携を前提とする。
誰もが他者とのかかわりの中で、生きている。厳密な意味で関わりが無ければ生きてはいけない。他者との関わりを確認する作業もまた、生きる意味の確認となるだろう。
また、できる範囲で目の前のすべきことを、時間がかかったとしても一つずつでも行うことによって、徐々に自分を取り戻すことができる。
二宮尊徳のこの短歌は、一つの生きる姿勢を示し、三陸のワカメ養殖家は、この短歌の実践者のように私には思える。
2012年4月1日
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