≪ヨーガをすると、幸せになる≫
『合掌童女』鹿児島寿蔵
ヨーガを始めて間もない頃、佐保田鶴治先生から「ヨーガをすると幸福になる」という話を何回か聞いた。
この言葉は、当時はヨーガ禅道話として実技の前に話されることが多かったように思う。現在残っている書物としては『道友』や『ヨーガ禅道話』(人文書院)、『ヨーガ禅』(澪標)などに掲載されている。
例えば、『ヨーガ禅』(澪標)U教え 佐保田先生との対話には、次のくだりがある。
皆さんが、ヨーガの仕方を正確に覚えて、それを毎日一定の時間にやる。それを何年か、 毎日やっておりますと、心の中に何となく、そこの方から喜びがわいてくるんです。身体が丈夫になりますし、身体と心がきちっと調ってきますと、何ということのできない喜びが湧いてきます。(中略)
自身の中から、楽しみやうれしさが湧いてきます。(中略)
そのうれしさによって、人を憎むことができなくなります。
当時の私の中には、『幸福』という概念はあまりなかった。ということは不幸せではなかったからかもしれない。
しかしこの話を聞いた時、改めて「幸福って何かな」という言葉が頭をよぎった。と同時に、ヨーガをして体を動かすことが、「私にとっては抽象的な『幸福』とどうつながるのか」という疑問も浮かんだ。
また、作詞家の阿木燿子さんが、エッセイの中に「何を貰ったとか、いいことがあったとか、そういう具体的なことがなくても、幸せを感じることがある」と書かれている部分を読み、疑問を胸に抱きながらも『ヨーガによる幸せ』を温めるようになった。
最近、ヨーガ指導の中でこのような話をした自分に気づいた。
指導を進める中、具体的には、アーサナを基本から始め、中盤あたりで最初のシャヴァ・アーサナ(屍の体位)をしている時、呼吸が自然にゆったりと深くなり、それにつれて、気持ちが和らいでくる。体もほぐれかけぽかぽかしてくると、ほっとしたり、気持ちが楽になったり、体も心地よくなる。これを「楽しい」「嬉しい」「有り難い」といった人がいる。これが一つの『幸せ』『幸福』かもしれないと思う。
さらに最後のシャヴァ・アーサナを終え、深いリラクゼーションから目覚める時、「あぁ、気持ちいい」とまるで温泉につかった時のような声を上げた人もいる。これも『幸せ』『幸福』かもしれないと思う。しかし、シャヴァ・アーサナによる癒しには、リラックス、気持ちよさだけではない、ある種の覚醒が必要である。
それはバタバタした騒がしい気持ちが落ち着いた後、比喩的に言うと、ちょうど泥と混じった湖水の波が穏やかになり、水が澄むことによって世界がリアル、明瞭になる風景に似ている。
具体的には、その後の呼吸法や瞑想も終えて、静かに目を開けて世界に対面した時、柔らかさ・温かさ・優しさ・拡がり・静謐な空気・澄んだ心・無条件にありがとうと言いたくなる心持などを味わうことができる。これこそ『幸せ』『幸福』以外の何物でもないと、私は思うようになった。
わずか90分ほどのこのような体験がヨーガで可能なのである。
この体験は自分を変え、人を変え、結果として社会を変える大きな力にもなりうると、私は最近つくづくと思う。
敬虔な気持ちでヨーガに向かおうと、佐保田鶴治先生の不肖の弟子は最近、改めてそう思う。
2013年1月1日
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[皆既日食]
ヨーガの一番の目的は、心が変化することです。自然との一体感や宇宙意識の体験は、その人の内面を深め、その後の人生を豊かにします。