≪みえるもの・みえないもの≫
先日母が肺炎にかかった。初期で、抗生物質の投与による自宅での養生で済んだ。しかし深夜、母が私のところに来て、「『知らない人が追悼の会をする』と言って、黒白の幕を張り出した。思わず『ここは私に家です!勝手なことはやめてください!!』と強く言ったら、宮崎アニメの登場人物のように無表情の妖精のようなキャラクター数人がサァーッと水を引くように退散した。気持ち悪かった」と言うなど、いつもはない言動が続いた。
長年の付き合いの漢方医から以前「高齢者が訳の分からないことを言うのは、不安がある時に多い」と聞いていたことを思い出し、私のベッドに母を抱きいれ、赤ちゃんのように「大丈夫!大丈夫!!」を繰り返し、傾聴に専念した。しばらく話を聴いた後、喉が渇いたようなので抹茶ミルクをホットで出すと、美味しそうに飲み、「言うだけ言ったらスゥーッとした」「温まって楽になった」と和やかな表情を見せた。
しかし翌日、友人が遊びに来ると、「妖精が来ている。ジロジロ見ないで知らん顔をした方がよいですよ」などと口走り、不安げな表情を見せた。友人も良くわかる人なので「そうします」と穏やかに言うと母も落ち着き、次第にごく普通の世間話を始めた。
このような状態は抗生物質を服用した間続き、その後は次第に元に戻り始めた。こう書くと、抗生物質が悪者のように思われるが、抗生物質の服用をやめたら肺炎がぶり返す恐れがあり、薬物療法はこの間必要であった。
高齢者が新たな病気や転倒、怪我などによって、認知症が進むなど、致命的な病状に突入する例は少なくない。この時の私は、肺炎はかなり好転していたので、母の精神的なブレにどう対処するかに腐心した。「現実にしっかり戻す」ことを心がけ、当時、100種類もの薔薇が見事に咲いている≪薔薇の館≫につれて薔薇を堪能したり、五感を刺激・満足する食事、ティータイム、おしゃれなひと時を持つことなどに気を配った。これらも相乗的に働いてくれたと思う。
とはいうものの、「世界は、みえるものだけで構成されているわけではない」と私は思う。みえる・みえないには個人差が多い。例えばアフリカ人の例を引くまでもなく、人間の視力には大きな差がある。文化人類学を研究している友人がアフリカに行った時、現地の人々が一斉に「キリンの集団が来る」と言って逃げ出しても、友人には全く見えなかったという。とっさに一緒に逃げて命拾いをしたが、後で「本当にキリンの集団が見えたの?」と聞くと、「あんなに大きなキリンの集団が見えなかったのか!」とあきれ顔で言われたという。
視力だけではなく、聴力・嗅覚・味覚・触覚の五感は現代人ほど感度が鈍くなっている。鈍くなった感度で「ある」「ない」を決めるのはいかがであろうか?しかし現代人でも微かに残っている感覚としては、「雰囲気」「気配」などの≪気≫がある。「≪気≫のせい」と軽く見ないで、その元を大切にすることも忘れてはいけないと思う。
≪気≫は拡大解釈すれば、宇宙のエッセンスともいえる。「草木国土悉皆成仏」に表現される思想は、人間だけではなく植物や動物、鉱物をも含めた森羅万象がこの世に存在し、それぞれを尊びながら共存する、古来からの思想の大きな流れの一つである。これらの中には、微細な動稙物など、現代人には見えないものもあるだろう。
また、現実の≪この世≫と、非現実と言われる≪あの世≫は、一般的な現代人が考えるほどかけ離れていないという考え方もある。危機に陥ったときの「虫の知らせ」「夢のご宣託」など、すべてが正しいと言い切れないが、生きる上でのヒントやアドバイスになったことは私自身少なくない。かと言って、≪あちら≫に重きを置くあり方にも危惧を感じる。
ここで、どのような≪みえないもの≫と縁を結ぶかは、結局、その人の心の状態、特に心の深い領域と関わりがある。私たちが現実の中で生きている時、まったく揺れないことはありえない。周囲の人たち・ものたちの影響を受けながらも無意識にも縁を拠り所としている。
ヨーガによって、心を安定させるだけではなく、浄化させることや、客観視できる物差しを持つことは、様々な現実に揺れながらも、自分にとって妥当なスペース・より自分に相応しいあり方を探ることにもなる。
「わたしがここにいる」ためには、人間として世界に存在する以上、他の存在も認め、共存しながら、『日常』という≪現実≫にしっかりと碇をおろすことが大切と思われる。
2015年7月1日
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[皆既日食]
ヨーガの一番の目的は、心が変化することです。自然との一体感や宇宙意識の体験は、その人の内面を深め、その後の人生を豊かにします。