≪ア−サナ(ヨ−ガ)のちから≫
先日、1日体験に来られた方がレッスン終了後、「私、ヨ−ガをしながら、体に『有難う』と言いました」と、私に言った。「それは、命に対して『有難う』でもありますね」と私は返した。私達はア−サナ(ヨ−ガのポ−ズ)のちからを実感しているので、ヨ−ガのア−サナを大切にし、丁寧に行なう。
佐保田鶴治先生(前列中央)を囲んで。渡辺は後列右端。 ヨ−ガについて私は、日本ヨ−ガ禅道友会初代会長、佐保田鶴治先生の『ヨ−ガ禅』、「動くメディテ−ションとしてのヨ−ガ」に強く魅かれる。これによって「霊性の向上」は固い表現になが、自然に心が深く落ち着くことができる。何よりも今の私が一番、強く思うことは、これによって命を実感できることである。
ア−サナをしながら、自分の身体の内面に意識を向けると、例えば腕の上下で、「あ、私の体の腕にはこのように血が流れている」と言う実感(これは比較的わかりやすい)を得ることができる。それを重ねると、「私の体…」の「私」がだんだん薄れて「体にはこのように血が流れる」という実感だけが心に沁みる。するとそれはさらに拡がり、「他の人の体にもこのように血が流れる」と思うことができる。たとえ、自分にとって腹が立つ人の体にも同じように血が流れていることを実感すると、その人への思い、特に否定的な思いも自然に和らぐ。
これは、腹の立つ気持ちを無理に抑えることではない。それはそれとして、体の仕組みを実感すると、多くの場合、≪神≫と言うとアレルギ−をおこす人もいるが、その奥にある神々しさなどに自然と合掌する心が立ち昇る。すると否定的な思いが無くならないとしても、相対的に小さくなる。これは大変重要と私は思う。
介護や医療の現場、もちろん他の分野でも、虐待が最近特に問題になっている。表面化するのは、氷山の一角であろう。先月行われた日本統合医療学会でも、これに触れ、「研修をしっかりしないといけない」という話が出た。これは個人的な意見であるが、「講義などの研修だけで虐待を無くすることはかなり難しい」と私は思う。誰もがわかっているけれど、ストレスや疲弊が積もり、最悪の場合には、虐待に走りかねない。それを「仕方がない」を流したり、無理に抑え込んでも問題は解決しない。しかし、このような命の実感がしっかり身につき、いわば、身体知として確立していれば、虐待に走りそうになっても歯止めがかかると思われる。これについては、私も、多くの生徒さんもよく似た体験をしており、「ヨ−ガをして、体はもちろん、精神的にも変わった」という例は、枚挙にいとまがない。こうして、体の内面への気づきが深まることによってその人が平和になると、その人を中心とした、人と人のあいだも平和になり、やがてその平和はさらに拡がると思われる。
「ア−サナ(ヨ−ガ)のちからは、大きく、それは深い意味を持つ」
と私は改めて強く実感する。
2018年1月1日
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[皆既日食]
ヨーガの一番の目的は、心が変化することです。自然との一体感や宇宙意識の体験は、その人の内面を深め、その後の人生を豊かにします。