≪無意識的偏見を超えて≫
最近、「無意識的偏見」という言葉を初めて聞いた。以前から言われていた、医学部への女子の入学拒否?!の理由として某大学担当者が「女子はコミュ力が高いから…?」と言った事が発端らしい。思わず、「それがどうした!」と突っ込みたくなる。ニュースでは、「無意識的偏見」は無意識に行われるので、「『変えられない』ことが更なる問題」としていた。
確かに、無意識に行われることは、無意識なので変えることは難しい。しかし、全く不可能なことではないと、私は思う。もし、無意識的偏見、無意識的○○、などが変えられないとすると、「すべて無意識なので、仕方がない」となってしまう。これでは、ますます世の中が混乱し、被害を受ける人も増えるだろう。
確かに、無意識は直接的には代えられないが、全く変えられないことはないと、私は思うようになった。その一つの解決法が≪意識化≫による≪気づき≫を深めることである。
ヨーガを始めてしばらく後、≪意識化≫と言う言葉を知った。≪意識化≫の結果、≪気づき≫が生まれる。≪意識化≫とは、自分と対象の間に距離を置くことである。距離を置くから、今まで見えなかったものが見え、≪気づき≫が生まれる。自分では「なんでこんなことをいつもしてしまうのか」と悩んでいたことについて、≪気づき≫を深めると、今まで気づかなかったことに気付くことがある。それは、新たな発見がおこり、それまでの対処法とは別の対処法に気付いたり、それへの対応に発想の転換ががおこることでもある。たとえば、対象への炎上がボヤに過ぎなくなったり、或いは人生に躓きはつきものだが、それを「決定的な失敗」と落ち込んでいたことが、「失敗は成功のもと」とこの体験から学んでより豊かな自分を構築してみようと思えるようになるなど、その差は大きい。
このように、≪意識化≫による気付きを通して、それまで不可能とされたことに「解決に道が拓ける、あるいはそれに対する対応に変化が起こる」として、私は関心を持った。それまで多くの無意識による対処法は、その都度、それなりに正解とは言えないとしても、妥当な方法が身についたものであったと思う。しかし、年月を経、状況も変化すると、その対処法は必ずしも適切とは言えない。若さが有り余った時期のやり方を人生の秋以降にそのまますることはできない。何かを始めたばかりのころのやり方は、道を深めるとともに少しづつ変化するのがふつうである。知人のユング分析派が「人生は自転車乗りのようなもの。微調整が大事!」と言っていたことを思いだす。うっかりよそ見をしてハンドルを急に動かす、または、ハンドルを切り損ねなくても、全くそのままでハンドルを動かさずに自転車を漕ごうとして自転車ごと倒れそうになることは少なくない」と言ったのは、正に名言である。
問題は、「この≪意識化≫≪気づき≫の状態をどのようにしてつくるか」である。方法はいくつかあるが、有効なものの一つがヨーガや瞑想である。特に、私達が行っているヨーガ(世間からは『佐保田ヨーガ』といわれる)は、動くメディテーションとして多くの人に実践しやすい妥当な道である。体を調え、呼吸を調え、心を調えながら、自分を調える、それはまた、自分を通して周囲、更には社会を調える方向へと進みゆく。
自然災害、人災など不穏な空気が色濃くなりつつある社会の中で、一人一人が自分の体の、例えば、体内の血液の流れや神経の和らぎを通して《いのち》を実感することは、自分が自分の中でいびつになったり、縮こまったりせず、かといって自我肥大にもならず、等身大の自分を楽しめることでもある。そのような心身が健康な人が増えると、周囲にも優しい眼差しを向け、愛の手を差し伸べることなどの行為に対して自然に喜びを感じられるようになり、社会の健康にも役立つ。このように個人の健康は、同時に社会の健康にもつながると私は思う。一人一人の存在は重く大きいものがある。
2019年1月1日
< 最新のエッセイに戻る
[皆既日食]
ヨーガの一番の目的は、心が変化することです。自然との一体感や宇宙意識の体験は、その人の内面を深め、その後の人生を豊かにします。