≪コロナ時代を生き抜く智慧と実践としてのヨーガ≫
佐保田鶴治先生(前列写真中央)を囲んで
ヨーガ仲間と渡辺(後列右端)
季節感がない
9月に入り、朝夕の気温が下がり、ほっとしていたら、テレビでは、『百貨店でのお節料理の予約販売』のニュースが流れ、思わず、「えっ!もうそんな季節!」と声に出してしまった。
「最近、何故か、季節感がない」というのも、友人間ではよく言われる言葉。季節が巡っているのは知っていても、「もうこんな季節になっている」と驚くことが多い。
先日も、この夏の猛暑ではくたくただったのに、自分のなかの時間としては、まだ、5,6月の感覚!?「これは何?」「私は病気?」「早くも(ないか!)認知症の傾向では!?」「認知症の一種の≪見当識障害≫では?」と心配になることもある。≪見当識障害≫について調べると、「見当識障害とは、認知症が引き起こす中核症状のひとつで、失見当とも呼ばれている。見当識とは、時間や場所、人間関係を把握する機能のことで、これが低下すると自分がいる場所が分からなくなったり、昼と夜の区別がつかなくなったり、目の前にいる人が誰なのか分からなくなったりする」と書かれているが、特に時間に関連しての、「季節感がない」と感じる傾向が多いように思う。自分の内なる時間である《季節》と、実際の時間の《季節》とのズレ、ギャップが無意識にも不安・不安定・不調和を呼び、心身の不調を招くと言われている。
外出自粛の影響
このような現象の原因の一つには、コロナ感染予防のための外出自粛が影響しているように思う。自粛による活動性の低下は、様々な気づきの機会を減少させ、自分の内なる《時間の流れ》を大幅に乱す。
私自身、仕事としてのヨーガ指導では、2月末からカルチャーセンターでの休講が始まり、再開は6月以降であった。この間、≪おうちヨーガ≫と称して、『ヨーガ実践DVD』や『ネットヨーガ』などで「カルチャーセンターでのヨーガ教室の時間にお家でヨーガをしましょう」と呼びかけ、その後、感想をラインなどで話し合ったりしながら、できるだけ、それまでの生活と変わらないように心掛けた。
しかし、当然ではあるが、毎週、異なるプログラムで顔を合わせて一堂に集う教室ヨーガとは違うものがある。それは、再開後に、改めて明らかになった。
カルチャーセンターのヨーガクラスに通うためには、前日からヨーガ服・バスタオル又はヨガマットなどを用意、無意識のうちにも出かける時間、着ていく服装などを確認する。服装チェックには、季節はもとより天候、ヨーガ後の行先など、こまごまのことを考慮に入れる。これは、いわば、神社やお寺で言うと、鳥居や山門にあたり、ここに入ると本殿や本堂、金堂に至るまでの心の準備がなされる。こうして当日、集まった時はその場での空気は固い。疲れがたまっている方、ストレスを抱えた方々が癒しを求めて遠方からも通って来られる。
ライブの効用
受講生と共に、原則を踏まえてアーサナ(ヨーガの体操)から始めるにつれて、次第に受講生一人一人の周囲の空気が澄んで和み、更にはそのスペース全体が澄んで和み、最後にはそこはかとなく歓び色に染まる。これは受講生一人一人の身心のリラックスと同時にある種の意識の覚醒を表していると思う。私自身では、最後の瞑想から目を開けた時、どれほど澄んで温かく柔らかい空気に変容しているかで、自分自身のヨーガ指導の評価としている。
もちろん、オンライン化を私は全面的に否定しているものではない。私が所属している某カルチャーセンターでは次回の自粛に備えてオンライン化を進めている。これは企業として当然である。オンライン化は現実的には必要な事である。近い将来訪れるかもしれない、コロナ感染の第3波対策としてのオンライン化については、先日行われた、オンライン化のお試しレッスン後、私の中では「ライブ・ヨーガに近づくオンライン・ヨーガ」を常に意識するようになった。
ライブ・ヨーガに話を戻すと、同じようなヨーガを実践しても、このような準備があるのと、無い場合、また、一つのスペースを共有しながら、同時に共に変化を共鳴しながら行うヨーガと、そうでなく自宅で一人で行うヨーガでは、おのずから身体への影響も異なると考えられる。当時政府は、「不要不急の外出は避ける」ように言われ、感染防止を考えると当然ではあるが、日々の人々の暮らしには、一見、不要不急の事柄が身体へ大きな意味を持つと思われる。例えば、季節感、「まもなく、サクラがつぼみをつける」「開花予想は、今年はどうかな?」「今年のつつじは天候不順で色が鮮やかではないらしい」などと、一見、生きる上でどうでもいいように思われることが、実は、その一つ一つが身体への季節の巡りを確実とするように思う。
生きる上で必要なものとは?
人間(生物)が生きる上で最低限必要なものは、空気・水・食料とされるが、これだけでは、特に人間は生存できない。殺伐として「生きていても面白くない」からである。生存するにはどうしても、楽しく、豊かに生きる何かが必要となる。それが≪智慧≫であったり、≪ミッション≫であったり、≪愛≫であったり、≪芸術≫であったり、また、《友人との何気ない会話》も必要不可欠である。それらが総合的に働いて人類は未来へと生きていける。これらの根底にあるものは、様々な形の≪繋がり≫である。
繋がりとは
繋がりには、三つの要素がある。@まず、個人内部、身体のつながり。体内に滞りがあってスムースに繋がらないと健康にもなれないし、生きることも難しくもなる。A自他、自分と他者との繋がり。これは社会的なつながりを意味し、人はどのような形を取ったとしても≪個≫だけでは存在できない。B自然との繋がり。自然に癒される部分は、普段、意識しないだけに大きいものがある。
宇宙ができたとされてから、気の遠くなるような月日が流れている。これを考えると、人類は出現したのは、宇宙的時間では、たった数秒前という考えも成り立つ。たった数秒前の人類が、やたらに開発の名のもとに、自然を破壊することの「ツケが今来ている」とする説もある。これはまた、時間的なつながり、過去から現在、未来への大いなる流れの中に存在する自己を実感することでもある。普段はあまり感じないことが多いが、心身の健康を考えた時、生きる意味を考えると、このようなグローバルな視点も必要となる。
これらを総観すると、@の自分の身体のつながりを確かとすることが一番アプローチしやすく、妥当な方法と思われる。自分の体内の流れをスムースにすることは、心理学的には≪自我肥大≫にならず、≪自己肯定感≫をもって等身大の自分でいられる。すると、他者に対しても尊大になったり、卑屈にもならず、人類の仲間としてお付き合いできるように思う。
ライフスタイルとしてのヨーガ禅
このように考えると、私はやはり、ヨーガの恩師である佐保田鶴治先生が提唱され、長年続けている《ヨーガ禅》《ライフスタイルとしてのヨーガ》《日ごろのヨーガ》にたどり着く。毎日行うのは難しいとしても、また、先に述べた≪オンライン・ヨーガ≫になったとしても、ほぼ定期的にヨーガを実践することによって、まず@自分の身体との繋がりを確かなものにすることができる。また、A人との繋がりも、ただ一緒にいるだけではなく、≪サット・サンガ≫(菩薩集団)として共に成長の可能性を共有できる。更にはBヨーガによる意識の拡大によって自然との一体感も可能である。年齢に関係なく、どこでも、自分のペースで行うことによって、体を調え《調身》、呼吸を調え《調息》、心を調える《調心》、更には、「人生を裨益(ひえき)する」ことが可能となる。
同時に、ヨーガを実践することは、自らを内省して、知らず知らずのうちに自己中心になっていないか、他者を認めた《共にある生活》ができているかを再確認することにも役立つ。このことは、特に今、必要である。
≪繋がり≫は、≪執着≫では決してない。この二つの違いは、エゴが介入するかどうかである。≪無我≫をベースにすることは難しいが、できるだけ広い視野に立ち、おおらかで柔軟な対処を心掛けたい。
以上、現実的には《欲張りだが理想的な人としての在り方》は、本来《普遍的な在り方》でもある。これに応えられるものは世の中にいくつかあると思われるが、具体的で実践可能な方法論を持つものとして、私は今こそ、改めて《ヨ―ガ禅》を提唱する。
2020年9月23日
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[皆既日食]
ヨーガの一番の目的は、心が変化することです。自然との一体感や宇宙意識の体験は、その人の内面を深め、その後の人生を豊かにします。