~ヨーガは生き方のレッスン~ まいまい(昧舞)ブログ

アルジュナヨーガ研修会主宰 渡辺昧比のブログ
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統合医療への道⑤

2013年2月27日 Posted in 統合医療への道

佐保田鶴治先生(中央)を囲んで。後列左端が渡辺昧比

佐保田鶴治先生(中央)を囲んで。後列左端が渡辺昧比

佐保田鶴治先生の指導を受ける

このページ(統合医療への道)を久しぶりに開きます。
前回までは、道草をしながらヨーガ・アシラム『日本ヨーガ禅道友会(佐保田鶴治会長)』に至る道のりを書きました。
ヨーガを始めるといっても、その前に『国際宗教・超心理学会(本山博会長)』に所属し、数年間だけ瞑想をしていたことが、『佐保田ヨーガ(と世間では言われる)』に必要だったことが、最近になって改めて確認するようになった。
「ヨーガとは…」と大上段に構えるまでもなく、心を安定、精神的・霊的にも成長させる方法論の一つであることは自明であるが、最近見聞きする≪ヨーガ≫≪ヨガ≫にはこれを疑問視せざるを得ないことが多い。旧人類といわれても、これは無視できないことである。
ヨーガのバイブルと言われる『ヨーガ・スートラ』に最初に「ヨーガとは、心のはたらきを止滅することである」(佐保田鶴治著、平河出版社)と定義されており、その具体的な方法としてアーサナ(坐法)・呼吸法(調気法)・瞑想がある。
これらを一般には順に行うが、決して単独で切り離されたものではなく、アーサナの中に呼吸を合わせる(呼吸法)や意識を集中する(瞑想の前段階)があり、呼吸法では呼吸などに集中するという意味ではやはり瞑想の前段階ともいえるように、この3つはリンクしながら進めていくところに『佐保田ヨーガ』の特徴があり、それによって心の深い領域へのアプローチが可能となる。長年にわたり、アカデミズムからも多くの支持を得ている理由もここにあると考える。
しかし、アーサナは誰でも入りやすいいわば≪易行≫であるために、一歩間違えると「アーサナをしさえすればよい」と通り一遍に通り過ごす危険性もはらんでいる。『佐保田ヨーガ』が『ヨーガ禅』である以上、あくまでも「動くメディテーション(瞑想)として行うこと」が必要不可欠である。
しかしこれらは、時間をかけてしみじみをわかってくる部分もある。
私自身を例にとると、『日本ヨーガ禅道友会』入会後、ごく最初の頃は佐保田先生に直接実技指導を受けるという大変幸運な時期であった。実技を指導しながら、「こうしてヨーガをしているうちに、心も変わるんですよ」「広い心が持てるようになったり、暖かい気持ちを持てるようになる、これは大変幸せなことです」と聞いても、その時は佐保田先生には失礼ながら「そんなものかな!?」とか、「それはそうでも早く戻してくれないと息が苦しくて耐えられない!」が実感であった。
これらの佐保田先生のことがおぼろげながらもわかるようになったのは、正直なところ、いつとは記憶が定かではないが、しばらく後のことであったと思う。
入会1年後のある日、石田祐雄先生から「編集(『道友』)を手伝ってくれる方はいませんか?」という呼びかけがあり、当時、フリーで編集の仕事をしていた私は「ヨーガについてはよくわかりませんが、できる範囲でお手伝いさせていただきたい」と申し出た。
当時は、パソコンはもちろん、ワープロもなく、カセットテープを聞きながらテープ起こしを筆記するという大変な作業であった。1編につき5,6回は書き直したと思う。大変な作業ではあるが、思い返すと、『佐保田ヨーガ』の理論の勉強にはこれ以上の物はないと思うくらい、私には勉強になった。私の『佐保田ヨーガ』理論の中核になってくれたとさえいえる。
こうして佐保田先生は、ヨーガの恩師ではあるが、年齢的にも離れすぎていたし(70歳代後半)、ヨーガ上の質問に気楽に細かなことまで聞く勇気が、当時の私にはなかった。そうして、毎週日曜日の朝、佐保田先生の講義『ヨーガの宗教理念』や『大乗起信論』などの後に、アーサナを指導されていた番場一雄先生の教室にも、アシラムの他に通うことになった。
番場先生は当時40歳代で熱くヨーガを語り、実践も半端ではなく、しかも気楽に私の質問に答えてくれる兄貴先生でもあった。佐保田先生からは『佐保田ヨーガ』理論の中核を、番場先生からは実技(アーサナ)の方法はもとより、その意味・アーサナを通しての身体(体+心+スピリチュアリティ)への道案内をしっかり教えてもらった気がする。さらには、冒頭に書いたように、一見挫折したかに思えた、『国際宗教・超心理学会(本山博会長)』での瞑想体験も今になってじんわりとにじんできてくれ、最終的には佐保田先生の「生活即ヨーガ」で私自身の生き方の指針にもなってきたことを実感する。
最近になって、番場先生を中心とした勉強会を行っていた『京都市職員会館かもがわ』で、インストラクターのOさんのお世話により、僭越ながら私たちも勉強会をさせていただくようになった。これは光栄と思っていたら、会場で今は亡き番場先生の幻聴(?!)「そうか!今度は君がここで勉強会をしてくれるのか!」を聞いた気(!!)がする。別の『京都市職員保養所きよみず』へ行ったとき、「ここでは勉強会がなかったから、番場先生はお出ましにはならないだろう」と思ったら、今度は「僕が君を応援しないわけはないだろう」という幻聴(!!)をまたもや聞いた気がする。
改めて、『佐保田ヨーガ』の伝統を継承することに、早春の寒さと煌めきに似た、凛とした思いが走った。
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統合医療への道④

2012年10月12日 Posted in 統合医療への道

藤田正直先生の眼差し「がんを愛する…」

鹿児島寿蔵『合掌童女』

鹿児島寿蔵『合掌童女』

人間医学社時代に忘れてはいけない想い出があった。藤田正直先生との想い出である。

叔母が乳がんになった。当時の乳がん宣告は、患者や家族のとっては死の宣告であった。
手術後の体力低下を見かねて、私は東京在住の叔母と、人間医学社の大浦孝秋会長の紹介状を持って藤田正直先生を訪ねる打ち合わせをした。私は著書の『ガン治療に残された道』や『ガンの治療を見なおせ』を読み、すがる思いで新幹線に乗った。著書の表紙には、ガン治療に残された道 ガン研究一途にうち込んだ著者が成果を問う画期的健康増進療法!と、書かれていた。

藤田先生は小柄で痩せていて、誠実に対応してくれた。話の詳細は忘れたが、丁寧に説明された後、私は何故か(今思い出しても冷や汗がでるが)「ガンを愛する」と口走ってしまった。全く、若気の至りを超えた、愚かな発言である。

そんな私に藤田先生は静かに「あなたはガンを愛せるのですか?僕はまだ愛せないな…」と一言言われた。先生は怒るのでもなく、哀しみとある種寂しそうな、しかしこの病に対して凛として向かおうとする眼差しを前方に向けた。

私はこの時、自分の傲慢さを恥じた。

帰阪後、人間医学社大浦会長に報告すると、会長は「藤田先生は偉い人だ…」と沈黙した。私は改めて大浦会長を尊敬し、秘書として仕事ができる幸せを満喫した。

さて、論理の飛躍と言われるのを覚悟で、現在の私が僭越にも藤田先生の心境を推測させていただくとしたら、「ガンに合掌するこころ」であろうか。それは、「いのちに合掌するこころ」でもある。

この「こころ」は、膨大な世界に拡がりつつある統合医療の、一分野≪ヨーガ療法≫にかかわっている微力な私の、掛け替えのないバックボーンになっている。

 

参考文献 藤田正直著 『ガン治療に残された道』 日本文芸社, 1971.10

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統合医療への道 4

ヨーガを始める

1974年5月人間医学社勤務時代、月1回の講演会≪中庸会≫で大浦孝秋会長を進行係に、『日本ヨーガ禅道友会(日本ヨーガアシラム)』を立ち上げたばかりの佐保田鶴治会長(大阪大学名誉教授)と『求道実行会(沖ヨガ道場)』会長の沖正弘会長が「ヨガと健康」をテーマに、ヨーガを通しての心身の健康観を存分に語った。

福田平八郎、漣(さざなみ)(大阪近代美術館所蔵)

左から大浦孝秋会長、大浦夫人、佐保田鶴治先生、沖正弘先生
この会場には、佐保田鶴治先生に同行した石田祐雄先生はもちろん、教師仲間では、尊敬し大好きだった故山田文子先生、面倒見のよい中山孝子先生、特に『ヨーガ入門』新装版の編集に関わった時には、何でも相談した松岡善雄先生(現、日本ヨーガ禅道院・教導)たちがそれぞれ別の場所にいたことが後に分かった。ここに心理学で言う、『布置』を感じるのは、私の思い込みであろうか?

『布置』constellationとは、元来、占星術において星の配置の意味を持つが、直接関連の無いことも、何かの関連が得るというふうに全体性を見るとして、特にユング派の精神分析で重要視される。この会場に来ていた、一見別々の他人数人が、後日、ヨーガアシラムの礎となる第0期、第1期教師の主要メンバーとして集うことになる。

話があらぬ方へ行ったが、この講演会の中で、仕事をしながら私の耳に入ったのは、「ヨーガをしてカラダが変わると、……(少し沈黙)ココロも変わるんです」の一言(これについては、ブログ別記【佐保田鶴治先生の、心に響く言葉】4参照)だけであった。

こうして私はヨーガを始めようと決意したが、人間医学社では、日本ヨーガアシラムが開かれる土日はイベントが多く、会長秘書の私にはとても休めるような状況ではなく、「ヨーガを始められない」悩みに悶々としていた。

そんなある日、会長の書斎で資料整理をしていた私に会長は突然、「君には心の分野の才能がある」と言った。当時の私は、内面的には西洋から東洋への道のりを歩き始めていたが、まだまだ外見はキャピキャピの現代っ子であった。また、妙なテレで、内面の変化を見せないそぶりもしていた。
そんな中で大浦会長の一言は、「何も言わなくても、私の内面を見守ってくれる人がいる」と嬉しいショックで、「ただの頑固爺さんではなかった(失礼!!)、信念のある立派な人だ」と心がほくほくと深く耕され、深いところからの安心感と喜びで満ちていった。

その頃、『宗教と超心理学会』の会長、本山博博士を中心とした講演と瞑想の会が、人間医学社の2階ホールで行われていた。大浦会長は、「心の世界はまやかしが多いから、正しい道を歩むように」と言い、本山先生の瞑想を強く勧めた。私は、当分、佐保田先生へ師事することはできそうも無いと思い、本山先生に瞑想の師事をうけた。

本山先生は、見るからに温厚かつ深く熟慮をたたえた人物で、初めての瞑想では、私の周りを本山先生たちが囲み、この世のものとは思えないような至福感を味わった。30分の瞑想も、初心者には長く感じられるのが常であるが、私には、あっという間で終わったのが惜しいほどであった。

この後、喜び勇んで瞑想を続けようとしたが、まもなく、瞑想を続けることができないようになった。瞑想時に印を組むと、指にトラブルがおこるようになった。決して力を入れているのではない。後に友人で『宗教と超心理学会』講師の岩崎正春先生、現在はサイコシンセサス(統合心理学)学会副会長(HPあり)に聞いたら、「ちょっと離せばよかった」と言われたが、当時は思いつかず、瞑想する→指にトラブルが起こるので止める⇒心の安定がほしいので瞑想する→指のトラブル を繰り返し、瞑想の会が京都市内へ移転したこともあって、会から離れてしまった。

「瞑想は素晴らしいが、今の私には、今のままの身体と向き合うことが必要」と思ったからである。私は新聞社勤務、人間医学社(編集部→会長秘書)勤務を経て、フリーランスのライターとなった。時間的にも余裕ができたので、「やっと、佐保田鶴治先生へ師事することができる」と、日本ヨーガアシラムの門を叩くことにした。

 

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統合医療への道2

2011年11月21日 Posted in 統合医療への道

早くも寄り道、道草…… いのちの仕組みに感動!

栗ひろい

栗ひろい

手術も環境も良し、だが…

母が白内障の手術を受けた。体調を調え、効果がより上がるように大事をとって、片目ずつ2泊3日の入院とした。

最初の入院では、手術室時は女性の看護師さんが脈を診てくれ、腰痛防止のために母の腰のカーブにぴったり合ったクッションを用意してくれ、病室は眺めの良い部屋で環境も良く、「食事も美味しい」と母は言った。翌日の検診も「順調です」であった。これでは、最高に幸せな患者と多くの人は思うだろう。実際、すでに両眼の白内障手術を受けた知人は、「目が4つあるなら、今度はそのような手術を受けたい」と羨んだ。

しかし、である。帰宅した母のその後は、首をかしげることばかり。

同じ事を何回も聞いたり、わかりきったことを繰り返す。簡単なことを聞いても、「頭が働かない」と嘆くなど、表情も生き生きしたところがない。

母にとっては、白内障だけではなく、手術入院は何十年ぶり?!2泊3日というものの、慣れない入院生活でのストレス?など心当たりを考えては見たものの、腑に落ちないものがあった。

このまま、今度は精神科のお世話?と私まで気が滅入った。このような状況の中、病院から2回目(左目)の手術入院の連絡が入った。状況を説明しても、「ご高齢の方には、良くあることですよ」という返事。とりあえず、入院できる状態ではなかったので、延期を申し出た。

母は自分なりに、膨大な時間とお金をかけて、様々な代替医療を研究、実践した。「そのラストが不本意なものになったとしたら…」と、私はたまらない気持ちになった。

ネットで検索したり、医師や医療関係者の友人知人に尋ねもした。

 

見えるとは

物を見るとき、光は角膜を通って瞳孔から眼の中に入り、水晶体・硝子体を通り、網膜に達する。網膜に達した光の刺激は、視神経を通って脳に伝わると『見える』こととなる。

同じものを見ても、違って見えることがあるのは、一つには、情報が最終的に大脳後頭葉の視覚野で映像となり、他の感覚器官からの情報の影響を受けながら、更に大脳の他の部位で記憶などと照らしあわされ、その人なりの意味を持った情報となることなどがあげられる。

東洋の思想『唯識』によると、「無意識には、生物として生まれたときからの膨大な記憶が貯蔵されている」と言う。『見える』ことが記憶と関わるなら、その人のあり方とも関連が深い。人が得る情報の80%以上は視覚によるので、視覚による心身への影響は大きいと言える。

医療関係者の知人によると、「人は、片方の目を交互に主として見る」説があると言う。確かに、歯の噛み方を思い出すと、『利き』はあっても両方使っているように思う。片方だけなら、損傷が早いからである。

バランス

バランスを大事に!

すると、例えば右目片方だけ手術で良くなった場合、右目を主とした情報と、そのままの左目を主とした情報の差が大きく、脳が混乱、誤作動を起こす可能性がある。パソコンで言うと、『凍結』『フリーズド』した状態である。内部での調整に追われ、他の事は、「考える余裕がない」らしい。

後の検診でわかったが、母の右眼の視力は0.3→0.8へとかなり良くなっていた。良くなった分、左右の差が大きく、脳の内では大仕事がなされていたと思われる。

先に述べた症状は、結果的には、心身を含めた全身のバランスをとる作業と、母と私は考えた。症状は大事な役目を持っている。

一つの老後のあり方

このことを考えると、まさに、母の状況にぴったり符合する。

私の友人・知人の中には、漢方医・鍼灸師・波動水やオステオパシーの施術士やアーユルヴェーダ、マクロビロティック等の実践者がいる。困難な状況のとき、「誰かに相談しようか?」と母に尋ねたら、「少しづつ戻りつつあるから、体の歩みに任せたい。元に戻ればいいし、戻れなかったら、戻れるところまででよい。代替医療といえども、今は、過剰なことはしたくない。」と言った。この母の言葉は、私の老後の考えに対する強い一言となった。

最近出会った医学系のT教授の言葉「人生の中での分を知ることが大切」を聞き、私は感銘を受けた。「延命!延命!」を強調する治療では、時として患者のQOLを脅かし、結果的に医療関係者と患者側は感情的トラブルを招きやすい。

それは決して命を放棄したり、あきらめることではない。納得できないことに対しては、説明を求めることはもちろんである。より良い医療を求める権利は、患者にはある。

天界からのプレゼント

天界からのプレゼント

特に、どんなに高齢になっても、自分の親は何時までもいてほしいと誰しもが願う。しかし、大自然の摂理を考えたとき、例外は、どこにもない。

幸い、母はかなり元気になった。ありがたいことである。

そして今回の大いなる気づきも、また、私には抱えきれないほどの、母からの、そして天界からのビッグな贈り物であった。

 

その1ヵ月後、2回目(今度は左目)の白内障手術を母は受けた。手術は定時に始まり定時前に終わり、環境も良く、看護師さん達も前回同様親切であった。ただ出血がややあったのか、目は充血していた。

翌日の検診の時ドクターは「日がたつと薄れますよ」と言ったが、多少慣れたとしてもワーファリン服用の母は、少々ナーバスになっていたようだった。

洛趣会退院日は帰宅後もゆったりと過ごしていた。翌日以降は、眼の負担を考え、洛趣会へ行くのをキャンセル!

洛趣会とは、「売り申さず、お賞(ほ)め下され」の考えのもと、京都の老舗30店が毎年お得意様を招待する、究極の京都展。京文化の深さ・重みを実感し、虎屋の和菓子をいただけるお茶席、尾張屋のお蕎麦も振舞われる。職人が丹精をこめて作る技は、ある種の瞑想にも通じるものがある。母はこの日を楽しみにして洋服やバッグを準備していたのに、いともあっさりとキャンセル!!「今は楽しみよりも眼をいたわるほうが大事!」

目薬の点滴時間などを考慮しながら、自分の知識・体験を総動員してさまざまな代替医療を、私の留守中、試みたらしい。

結果、年齢の割には速く日ごとに充血がひき、すっきりとした眼差しになった。もちろん体調不安定は無く、総視力はだんだん上がり、「楽に良く見られるようになった」という。

この背景には、某大学附属病院眼科の主治医を中心としたチームの成果があるのは、明らかである。しかしそれにプラスして、身びいきではあるが、母が祖母から引継ぎ、更に自分なりに研究実践した、それまでの様々な健康法や治療法、何よりもその根本的な考えが実を結んでくれたように私には思えた。

「欲どおしくしない!」「日々は繰り返しではなく、積み重ね」「いろいろ工夫してやってみる」凡庸ではあるが、まだまだ母から学ぶものはあると痛感した。

秋晴れのような母の表情に、私は大きく頷いた。

もみじ

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統合医療への道1

2011年9月26日 Posted in 統合医療への道 Tags:

統合医療への道のりを考えるとき、母方の祖母の影響は大きい。祖母は、直ぐ上の仲の良い兄が医者のなったのもつかの間、夭折したのがショックで、当時(1910年代後半)数少ない看護婦になった。薬草などにも興味を持ち、待ち前の努力で、今で言う、代替医療の走りを自分なりに研究・実践していた。

鬼子母神

母は祖母の長女として生まれたが、ひどく病弱であった。当時の医学では良くなく見込みがないため、日蓮宗に帰依していた祖母は『鬼子母神』で太鼓をたたきながら町中を歩いた。

『鬼子母神』とは、インドに伝わる話によれば、初めハーリーティ(訶梨帝母)という夜叉で、1000人の子供の母だったが、しばしば人の子をとって食べていた。そこで、ある時お釈迦さまは彼女が改心するようにと、一番可愛がっている一番末の子の愛奴(あいぬ)を隠した。

ハーリーティは気も狂わんばかりにその子を探し回るが見つからない。お釈迦さまが現れて、「子供がいなくなるということがどんなにつらいものかわかったか。お前の今までの悪行を反省するが良い」と諭した。心を入れ替えたハーリーティは仏道に帰依し、子供を守り、安産をさせてくれる慈愛の仏、鬼子母神となった。

日本では、法華経では、鬼子母神は法華経を読誦し受持する神とされていて、鬼子母神を祀る寺としては、日蓮宗系のところが多い。

その後の母の健康

その後の母は、何とか、大病せずに成長した。これには、時代的背景(乗り物がないので、1時間くらいは歩くのが当然)、家庭環境(鰹節屋を営んでいたため食べ物には気を配る、衣・食など多くは手作りのもの)などが影響していると思われる。

様々な健康酒や体に良いとされる健康法を探る姿勢はそのまま、母に受け継がれた。

母は20歳過ぎに結婚し、私が生まれたが、私もまた、病弱であった。出産のときも「母が命を落とすか、私が死産か、二人とも無理かもしれない」といわれた中で、私が生まれ、母も何とか事なきを得たことは奇跡に近いことだったらしい。

この背景には、祖母の命がけの『祈り』があったことは言うまでもない。『祈り』は、最近では、米国を中心として代替医療(ここでは簡単に「西洋医学以外の医療」と述べるにとどまる)で注目されている。例えば2002年の米国(ミシガン州を除く)での調査では、代替医療利用状況は第1位「自身による祈り43%」で第2位は「他者による祈り24.4%」となっている。ただし、日本では現在、『祈り』の調査項目はない。

私の病弱な幼少期から成人へ

幼少期も私は、引き続き病弱であった。遠足や運動会の前には、いつも担任の先生が、「今回は参加できるか?」と尋ね、参加する場合も、叔母や祖母が付き添いという、今考えると、ご大層な身分であった(笑い)

このような私が、父の転勤で北海道の函館から大阪へ引っ越すことになった。周囲の反対・心配は大変なものだったらしい。北海道に比べるとかなり長い夏休みのほとんどは、大阪を離れて函館の母の実家で暮らした。

何が功を奏したのか、私は次第に元気になった。更に成長するにつれ、生意気にもなっていった。時にうんざりするほど祖母に言われた「ご先祖様を大切に」「丁寧に生きる」は、青春の真っ只中を行く私には、重く、うるさく感じられ、次第にこともあろうか、「現代の魔力」や「西洋科学のすばらしさ」に惹かれていった。

大学でフランス文学専攻、部活では現代文学研究会に所属し、卒業後には新聞社勤務ということも影響したかもしれない。しかしその後、大きな挫折を経て20歳代後半で私は「西洋から東洋へ」と大転換をすることになる。

例えば、「食物と血液」を研究し「病氣はライフスタイル(食生活・環境・心)の乱れによって発症する(食因説)」と言って、御茶ノ水クリニックを開業した、『国際自然医学会』会長の森下敬一博士、『血液腸管製造説』を提唱した岐阜大学の千島喜久男教授、大阪大学教授で『酸塩基平衡学』を提唱した片瀬淡博士、同じく大阪大学教授で『有害食品研究会』や後の『日本アーユルヴェーダ学会』を立ち上げた丸山博博士、『国際宗教・超心理学会』の本山博博士、京都精華大学名誉教授で『意味論』の研究や『アレクサンダー・テクニーク』を日本に導入した片桐ユズル教授。もちろん、ヨーガの恩師、日本ヨーガ禅道友会会長の、大阪大学名誉教授、佐保田鶴治博士との出会いの意味と影響は測り知れないほど大きい。

これらの『西洋から東洋への大転換』については、順次、次回以降でお伝えします。