佐保田鶴治先生の心に響く言葉1
早いもので日本ヨーガ禅道友会の初代会長であり、アルジュナヨーガ研修会の顧問にもなっていただいた、佐保田鶴治先生に師事してから40年近く、先生が亡くなってから四半世紀もの年月が流れた。
佐保田鶴治先生からは多くのものを学んだが、ここでは先生の生きた言葉を紹介し、ヨーガの心を探ってみたいと思う。
先生の言葉の中で、最近一番強く思い浮かべるのが、以下である。
潜在意識(無意識)に影響を与えるヨーガ
ヨーガは、単なる体操ではありません。ヨーガには、壮大な哲学があります。
………
「腹を立てない」のではなく、自然に「腹が立たなくなります」
実は、これは考えている以上に、大きな問題です。
ヨーガを行っているうちに、潜在意識(無意識)が変化するのです。
このことによって、表面の心(意識)もきれいになり、境遇も変わります。
難しい病気に対する大きな力にもなります。
これが本当のヨーガの利益です。 『道友』26号より
意識は心の一部
私は20歳代後半からヨーガを始めたが、その数年前から心の仕組み(意識・無意識)に関心を持っていた。中でも、無意識へのアプローチは宗教的修行、特に過酷な修行を通してのみ可能になると考えていた。そのため、佐保鶴治先生のこの話を聞いたときは、正直「ヨーガの体操で本当に膨大な無意識を調えることができるのかな」と疑問に思った。
ユング派心理学者で京都大学名誉教授、後に文化庁長官になられた河合隼雄教授は、意識・無意識の割合は大まかに言って意識が1/7くらいといわれたと記憶している。他の先生の著書を読んでも、当時は同じだった。
最近、言われているのは、意識は5%程度という。
これは研究が進んで明確になったのか、あるいは、意識と無意識のボーダーラインが揺れて変化したのか、筆者には断言できないが、事件などで犯人が「何か知らないが、やってしまった」「そのとき、体の奥からの強い衝動に突き動かされた」などは、無意識からの発現と見ることができよう。無意識から上がるエネルギーは強力で、時には破壊的に働くこともある。もちろん、素晴らしい想像力を発揮する例も少なくない。
東洋の思想、【唯識】の視点に立つと、「無意識が調うと意識も調う」と考えることができる。これを進めると佐保田先生が言われるように境遇も変えるほどの影響を持つことになる。問題は、無意識を調えるための方法論である。佐保田先生の「本当のヨーガをすれば良い!」の解明は、長年、私の課題であった。
無意識を調える
「継続は力なり」というが、いつの間にか、私なりにこの課題の解決に向かっていたことに気づいた。
ヨーガの後、自修のときも指導のときも、終わったとの静謐な雰囲気が私は大好きである。そのためにヨーガをするといっても過言ではない。ある人は、「その時の空気がおいしい」と言い、「透き通った空気は貴重だ」といった人もいる。
佐保田鶴治先生の提唱された【ヨーガ禅】の具体的な形の一つがここにある。
ヨーガのアーサナ(体操)は、単なる体操ではなく、動くメディテーション(瞑想)である。具体的には、4つの原則、特に『意識を集中』を深めると、日常でまとわり着いたさまざまな雑念・ストレス、それから来る感情的な葛藤などが、結果として自然に枯葉が朽ちるように落ちていく。無理にとろうとして、逆にさらにべったりとくっつけたり、あるいは他の部分をも千切りとってしまうような無茶な方法ではなく、自然に無理なく気がついたら落ちていたという感じを持つことがある。これは、更に続けることによって、心の深い領域からの安定感につながるように筆者は思う。
無意識からあがるもの
表現としては静けさ・安心感・ゆったり感・肯定感・ひたひたと来る嬉しさや楽しさなど。
私だけではなく、受講生の方も感じることで部屋の雰囲気はすっかり変わる。
このことは意識だけではなく、無意識(といってもまだまだ意識に近い、浅い領域と思うが)も調いつつあると考えられる。なぜなら、これらの実感は客観的理由がないことなどで推測される。
一般に言われるように、外側から与えられる喜び、有形・無形のものをもらう(これも拒否はしないが)のではなく、今、ただ、ここにこうしていることが楽しい。ただそこにいる家族や友人がいとおしいという気持ちが、心の奥からひたひたと押し寄せてくる。自分や他者に対する原点での無条件の肯定も、ここにはある。
これらの心の変化は、意識だけで作り上げた世界では成り立たず、無意識からの調整が不可欠である。
このような状況が起こると、「類似の法則」に沿って人格の変容が起こり、境遇が変わったり、それまでは考えられなかった対処法、力を発揮することがある。
残念ながら、私の場合は、この状態を持続させることは難しいが、それは、私が「ヨーガの道半ばにいる」ということであろう。
然し道半ばとしても、多くの人がヨーガを行じ、たとえひと時でも心の平安を持つことができたら、この世はもっと住みやすくなるだろうと、おどろおどろしいニュースを聞くたびに、改めてそう思う。