~ヨーガは生き方のレッスン~ まいまい(昧舞)ブログ

アルジュナヨーガ研修会主宰 渡辺昧比のブログ
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佐保田鶴治先生の、心の響く言葉3

心田を耕す

ヨーガの一番の効果は、心が進化することです。
まず、心が落ち着いた状態≪和≫があらわれ、次いで、言いあらわすことのできない喜び≪楽≫、さらに進むと他人、人間以外のものに対しても優しい気持ち≪愛≫が起こります。
こういう土壌(心田)ができてはじめて、自分自身の中に立派な精神文化をつくることができるのです。

佐保田鶴治先生の言葉は、いつ聞いてもその時々の私の心に響くものがあった。
特にヨーガを始めた頃、頭でっかちだった私の内には、仏典・聖書・思想・文学などが乱雑に押し込まれ、時としてそのために身動きができないほどであった。

ヨーガを続けていくうちに、それまで考えもしなかった身体が、暗やみから明かるみへと光が射すように感じられるようになった。
筋肉の収縮や伸展に始まる意識の拡大が進むにつれ、身体の末端である指先・髪の毛1本まで感じられ、さらには自分の周囲の人、モノにさえも他者として区切れないほどの親しみを感じる。 
                             
実際、ヨーガを長時間行った後では、ベランダの青葉がいつに無くツヤツヤと輝いて見えたり、外へ出ると見知らす犬でさえも尾を振って近づくことがある。

このようなことは、カルチャーセンターなどでの指導の際にも、似たものがある。
人の日常生活は、外見からは落ち着いて見えても、本人にとってはストレスの重荷に耐えかねていることがある。
「場の空気は構成員全体で創る」という言葉があるが、ヨーガレッスンの始めは空気が強張っていることがある。もちろん、呼吸や動きなどは個人差があるが、全員が一緒にヨーガのポーズを行っていくと、空気がだんだん和らいでくる。
佐保田鶴治先生の4原則を守りながら行っていくうちに、体がリラックスし、呼吸も落ち着き、表情も和やかに、時に笑顔も浮かぶ。

このように土壌が耕された上に蒔かれたタネだけが、精神的文化という果実をつけることができるのだろう。
誤解されやすいことであるが、ヨーガによるリラクゼーションは、ただ、だらだらとした状態ではない。また、多くの人が心地よいという、居眠りのような夢うつつの状態でもない。もちろん、それまでの興奮した意識状態は弛緩へと向かうが、訳のわからない≪忘我≫ではなく、低い意識状態ではあるが覚醒した状態≪覚我≫である。

それ故に、様々な気づきがおこり、直観による智慧がはたらくようになる。
佐保田鶴治先生は、ヨーガを行うと、「仏典の意味がしみじみと体にしみこんでくる」といわれた。確かに、私も浅学ではあるが書物の内容を実感することがある。

立派な思想・素晴らしい人に出会っても、知識を頭の隅に置くだけではもったいない。自分の土壌にしっかり植え、水遣りを欠かさずに大切に育てたいと私は思う。それは何よりも自分を育て、また、周囲にも何かしらの好ましい影響を、微力ながらも与えることにもなるのではないかと、最近私は、ひそかに期待している。

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統合医療への道3

西洋から東洋へ、そしてヨーガへ

時代の風潮も伴い、西洋文化の素晴らしさにどっぷり浸っていた私は、やがて些細な(と見える)ことに行き詰まりを感じた。所詮、たった一人の人間、それも世間知らずの若い女性ができることには限界がある。しかし、その時は大きな歯車の中で押しつぶされそうな私がいた。
「なぜ?」「どうして私が?」と問いかけても答えは無い。

その時受講した、国際自然医会のスクーリングで講師から次の言葉を聴いた。
「躓くということは、心の目が曇っているからである。心の目が曇っていなければ、そこに石があってもまたぐなり、横へ行くなりして躓きはしない」

国際自然医学会とは、日本赤十字病院の勤務医だった森下敬一博士が立ち上げた会で、『浄血健康理論』をベースに、「治療・健康度をあげるには、血液の状態を良くすること」として様々な活動を展開していた。患者の血液を検査した結果、酸性度が高い患者は治りにくく、中性に近い患者は治りやすいことを臨床から気づいたのである。
私は、その一つの食を通して血液を浄化するアドバイスをする≪フード・コンサルタント≫の資格を得るためのスクーリングを受講してした。

新聞記者というハードな仕事で体調を崩したこの時期、自分を調整しながら、次の仕事を考えていこうと考えたのである。
スクーリングを通して、『病気が治る』ということは、外側からの治療と同時に、それを受け入れ、効果的にする内的状況もまた、同じように必要なことと感じた。先述の「心の目…」も眼からウロコの体験で、新たな世界が拡がる気配に、私はワクワクした。

≪フード・コンサルタント≫を取得した私は、この資格を生かすべく今で言う、就活を始めた。某デパートの自然食品売り場と人間医学社の編集員募集が、まもなく知人を通して連絡があった。
デパートの自然食品売り場は、当時、≪フー・コン≫の多くが目指した職場で、そこは給料がよく、リニューアルしたばかりで好感が持てた。もちろん、資格を十分生かすことができる。
一方、人間医学社とは、大阪大学医学部の片瀬淡教授が提唱した『酸塩基平衡学』をベースに、健康食品を製造販売、今で言う代替医療の研究家・実践家を呼んでの講演会『中庸会』や治療の場を提供、食の大切さや心のあり方の重要性を会長が説く健康相談、月間『人間医学』誌の発行など、様々な活動を行っていた。
当時は、初代会長、大浦孝秋が80歳代。矍鑠とした、明治人であった。正直、給料は(デパートに比べると)安く、休みも取りにくく、「わがままな私には窮屈かな」とも思ったが、最終的には面接での会長の、口うるさそうではあるが(失礼!!)人類愛に満ちた表情に、何となく「面白いかもしれない」と入社した。ちなみに、ここでは全寮制(私だけ高槻の自宅からの通い)の玄米菜食の食事つきであった。

ここでは、国際宗教超心理学会の本山博博士、断食を心身の浄化法にまで高めた甲田医院院長甲田光雄先生、大阪大学医学部教授で有害食品研究会や後の日本アーユルヴェーダ学会を立ち上げた丸山博教授、など私にとってはその後のあり方に多くの影響を与えてくれた、貴重な出会いの数々があった。
中でも、ヨーガの恩師、佐保田鶴治先生との出会いは、計り知れないものがある。

1974年5月、人間医学社の2階ホールで行われた【中庸会】のテーマは、鼎談「ヨガと健康」で、大浦秋会長を進行役に、日本ヨーガ禅道友会会長の佐保田鶴治先生と求道実行会(沖ヨガ道場)の沖正弘先生がヨガを通しての心身の健康観を存分に語った。

このとき私は、秘書として、会場の2階近辺や会長の書斎、編集室、講演後の食事のためのキッチンとの打ち合わせ、編集室などを駆け回る忙しさ。じっくり話を聞くことはできないが、講演内容は建物内どこにいても、スピーカーから声が流れて聞こえるようになっていた。
この時、私の耳に入ったのは、佐保田鶴治先生の「ヨーガをして、体が変わると、(少し沈黙があり)心も変わるんです」の一言だけであった。
「ヨーガをして、体がかわる」は、当然と思ったが、沈黙の後に来る言葉を待っていた。
「心も変わるんです」は、まったくの予想外であった。

当時私は、元気そうに見えても体力が無く、そこから来る劣等感に悩まされていた。心と体の健康が必要と、自分なりの健康体操を毎日欠かさなかったしまた、心の健康については座禅に行ったり、名僧を言われる僧侶の講演を聞いたり、哲学書を解らぬままに紐解いても見た。
しかし、ヨーガの体操で、体を動かして体が健康になるのは分かるが、それで心も変化するということがそのときはよく分からなかった。しかし、話の内容から嘘ではないと直感し、「これが本当ならすごい!」と思った。

この時、大変失礼ながら、沖正弘先生や大浦孝秋会長の話はまったく耳に入らなかった。ちなみに、その後の月刊誌への掲載原稿も、この件は入っていない。
これが、佐保田鶴治先生との、ヨーガとの、私にとってはビッグ・イベントであった。
その数年後、佐保田鶴治先生の門をたたくことになるが、まだこの時代、ヨーガは異端者扱いが濃厚であった。その中で、大浦孝秋会長の言葉、「君には心の分野の才能がある」は、持ち上げすぎではあるが、私にとって大きな励みとなった。

こうして、私はヨーガへの道を歩み始めた。

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統合医療への道2

2011年11月21日 Posted in 統合医療への道

早くも寄り道、道草…… いのちの仕組みに感動!

栗ひろい

栗ひろい

手術も環境も良し、だが…

母が白内障の手術を受けた。体調を調え、効果がより上がるように大事をとって、片目ずつ2泊3日の入院とした。

最初の入院では、手術室時は女性の看護師さんが脈を診てくれ、腰痛防止のために母の腰のカーブにぴったり合ったクッションを用意してくれ、病室は眺めの良い部屋で環境も良く、「食事も美味しい」と母は言った。翌日の検診も「順調です」であった。これでは、最高に幸せな患者と多くの人は思うだろう。実際、すでに両眼の白内障手術を受けた知人は、「目が4つあるなら、今度はそのような手術を受けたい」と羨んだ。

しかし、である。帰宅した母のその後は、首をかしげることばかり。

同じ事を何回も聞いたり、わかりきったことを繰り返す。簡単なことを聞いても、「頭が働かない」と嘆くなど、表情も生き生きしたところがない。

母にとっては、白内障だけではなく、手術入院は何十年ぶり?!2泊3日というものの、慣れない入院生活でのストレス?など心当たりを考えては見たものの、腑に落ちないものがあった。

このまま、今度は精神科のお世話?と私まで気が滅入った。このような状況の中、病院から2回目(左目)の手術入院の連絡が入った。状況を説明しても、「ご高齢の方には、良くあることですよ」という返事。とりあえず、入院できる状態ではなかったので、延期を申し出た。

母は自分なりに、膨大な時間とお金をかけて、様々な代替医療を研究、実践した。「そのラストが不本意なものになったとしたら…」と、私はたまらない気持ちになった。

ネットで検索したり、医師や医療関係者の友人知人に尋ねもした。

 

見えるとは

物を見るとき、光は角膜を通って瞳孔から眼の中に入り、水晶体・硝子体を通り、網膜に達する。網膜に達した光の刺激は、視神経を通って脳に伝わると『見える』こととなる。

同じものを見ても、違って見えることがあるのは、一つには、情報が最終的に大脳後頭葉の視覚野で映像となり、他の感覚器官からの情報の影響を受けながら、更に大脳の他の部位で記憶などと照らしあわされ、その人なりの意味を持った情報となることなどがあげられる。

東洋の思想『唯識』によると、「無意識には、生物として生まれたときからの膨大な記憶が貯蔵されている」と言う。『見える』ことが記憶と関わるなら、その人のあり方とも関連が深い。人が得る情報の80%以上は視覚によるので、視覚による心身への影響は大きいと言える。

医療関係者の知人によると、「人は、片方の目を交互に主として見る」説があると言う。確かに、歯の噛み方を思い出すと、『利き』はあっても両方使っているように思う。片方だけなら、損傷が早いからである。

バランス

バランスを大事に!

すると、例えば右目片方だけ手術で良くなった場合、右目を主とした情報と、そのままの左目を主とした情報の差が大きく、脳が混乱、誤作動を起こす可能性がある。パソコンで言うと、『凍結』『フリーズド』した状態である。内部での調整に追われ、他の事は、「考える余裕がない」らしい。

後の検診でわかったが、母の右眼の視力は0.3→0.8へとかなり良くなっていた。良くなった分、左右の差が大きく、脳の内では大仕事がなされていたと思われる。

先に述べた症状は、結果的には、心身を含めた全身のバランスをとる作業と、母と私は考えた。症状は大事な役目を持っている。

一つの老後のあり方

このことを考えると、まさに、母の状況にぴったり符合する。

私の友人・知人の中には、漢方医・鍼灸師・波動水やオステオパシーの施術士やアーユルヴェーダ、マクロビロティック等の実践者がいる。困難な状況のとき、「誰かに相談しようか?」と母に尋ねたら、「少しづつ戻りつつあるから、体の歩みに任せたい。元に戻ればいいし、戻れなかったら、戻れるところまででよい。代替医療といえども、今は、過剰なことはしたくない。」と言った。この母の言葉は、私の老後の考えに対する強い一言となった。

最近出会った医学系のT教授の言葉「人生の中での分を知ることが大切」を聞き、私は感銘を受けた。「延命!延命!」を強調する治療では、時として患者のQOLを脅かし、結果的に医療関係者と患者側は感情的トラブルを招きやすい。

それは決して命を放棄したり、あきらめることではない。納得できないことに対しては、説明を求めることはもちろんである。より良い医療を求める権利は、患者にはある。

天界からのプレゼント

天界からのプレゼント

特に、どんなに高齢になっても、自分の親は何時までもいてほしいと誰しもが願う。しかし、大自然の摂理を考えたとき、例外は、どこにもない。

幸い、母はかなり元気になった。ありがたいことである。

そして今回の大いなる気づきも、また、私には抱えきれないほどの、母からの、そして天界からのビッグな贈り物であった。

 

その1ヵ月後、2回目(今度は左目)の白内障手術を母は受けた。手術は定時に始まり定時前に終わり、環境も良く、看護師さん達も前回同様親切であった。ただ出血がややあったのか、目は充血していた。

翌日の検診の時ドクターは「日がたつと薄れますよ」と言ったが、多少慣れたとしてもワーファリン服用の母は、少々ナーバスになっていたようだった。

洛趣会退院日は帰宅後もゆったりと過ごしていた。翌日以降は、眼の負担を考え、洛趣会へ行くのをキャンセル!

洛趣会とは、「売り申さず、お賞(ほ)め下され」の考えのもと、京都の老舗30店が毎年お得意様を招待する、究極の京都展。京文化の深さ・重みを実感し、虎屋の和菓子をいただけるお茶席、尾張屋のお蕎麦も振舞われる。職人が丹精をこめて作る技は、ある種の瞑想にも通じるものがある。母はこの日を楽しみにして洋服やバッグを準備していたのに、いともあっさりとキャンセル!!「今は楽しみよりも眼をいたわるほうが大事!」

目薬の点滴時間などを考慮しながら、自分の知識・体験を総動員してさまざまな代替医療を、私の留守中、試みたらしい。

結果、年齢の割には速く日ごとに充血がひき、すっきりとした眼差しになった。もちろん体調不安定は無く、総視力はだんだん上がり、「楽に良く見られるようになった」という。

この背景には、某大学附属病院眼科の主治医を中心としたチームの成果があるのは、明らかである。しかしそれにプラスして、身びいきではあるが、母が祖母から引継ぎ、更に自分なりに研究実践した、それまでの様々な健康法や治療法、何よりもその根本的な考えが実を結んでくれたように私には思えた。

「欲どおしくしない!」「日々は繰り返しではなく、積み重ね」「いろいろ工夫してやってみる」凡庸ではあるが、まだまだ母から学ぶものはあると痛感した。

秋晴れのような母の表情に、私は大きく頷いた。

もみじ

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佐保田鶴治先生の、心に響く言葉2

アルジュナヨーガ研修会5周年記念。佐保田鶴治先生講演

アルジュナヨーガ研修会5周年記念。佐保田鶴治先生講演

ヨーガを始めても仕事やプライベート、他の関わりなどでヨーガに時間を割けずに悩んだ時期があった。そのような時、佐保田鶴治先生のお話の中に、このような内容があった。

大阪から東京へ行くときに、西へ行っても良い

大阪から東京へ行く時、誰もが東へ行こうとする。これは正しいけれども、合理的

ではない。なぜなら、東へ真直ぐ行けば、いずれ山や海に出てしまう。山や海がある

と真直ぐいけないとは言えないが、行ける人は少ない。

それよりも道に沿い、ある時は北へ上り、また、ある時は南へ、時として西へ行くと

があっても、最終的に東京へ行くという信念・目標を持ち続けて歩むことが大切であ

る。

 

私たちが何かをしようとする時、周囲はそう都合よく運ばないことが多い。一人ひとりの生活があり、何よりも、自分を中心に世界が回っているわけではないからである。

このような時、私たちは、ついつい、周囲をうらんだり、環境を嘆いたり、更には挫折しそうになる。

しかし『挫折』は、その時は苦しいが、振り返ると「それがあったから、今の私がある」と思える何かがある。

このようなことが以前、あった。

 

ある挫折

新幹線を使えば、充分、往復できる駅近くのメンタルクリニックから、ヨーガ療法のオファーがあった。打ち合わせに出向き、お試しレッスンをして、院長と話し合い、曜日・時間・指導料・スタート時などを決めた。当然私は、移動時間をも含めた、その時間帯を空けて準備をした。しかし、スタートの直前、「保留にしたい」という電話が入り、話の内容に引っかかるものがあり、「保留というより、中止ですか?」と尋ねたら、「そうです」との返事。理由のないまま、☎1本のドタキャンだった。

 

「納得できない」と周囲に言ったら、「ヨーガ療法なら、この先生をご紹介しますよ」と当時、統合医療研究会を立ち上げた直後の某大学医学部の教授を紹介され、統合医療研究に『ヨーガ療法』で加わり、成果を上げることができた。この先生との出会いによって、その後、統合医療の中でのヨーガ療法への道が拡がりつつある。また、先生には、高齢の母の病気のことで、貴重なアドバイスをいただいた。

 

『挫折』には、多くの対処法がある。感情的になって、怒る方法もあるし、へこむ人もいる、また、社会的に力のある人に相手を説得してもらう方法もあるだろう。

しかし私は、基本的には、「これは何を意味するのかな?」「自分の道を曲げないで、また同時に、出来れば相手を傷つけずに、解決することはできないか?」と思うようになった。

感情的になることは、気持ちはわかるが、賢明とは言えない。へこむのは、自分を曲げるようで好まない。もちろん、人の力や知識、智慧を借りることもあるが、とりあえずは、自分でやってみたい、などの理由による。

 

信念・磁石をしっかりと

こうして自分なりの道を探していると、何かの方法が開けてくることが多い。

佐保田鶴治先生の言葉で言えば、『信念』『目標』を持ち続けていれば、大阪から東京へ行くときに、たとえ西へ行ったとしても、「東京へは行ける!」と確信する。

それは、私の言葉で言えば、『磁石』。『磁石』を錆びないようする。いつもきちんと方位を示せるように、磨いておくことである。

人生の道は、何時もいくつか用意されている。道の最初の辺りは、大きな違いがないように見える。しかし、次第に差は拡がり、大きな隔たりができる。

心の『磁石』をしっかり持ち、「東京へ行こう!」の思いを強く持っていれば、たとえ、一時的に西へ行ったとしても、東京へ行ける。

佐保田鶴治先生とヨーガの仲間たち

それどころか、一時的にしろ、西へ行ったために出会った人々、風景、出来事を糧に、自分を豊かにしながら歩いていけることは素晴らしい。

一見、無駄遣いに思えた時間やエネルギーが(当時は、ストレスに感じたものであるが)、本当に岐路に立ったり、大決断を余儀なくされた時、ピンチに立った時、その時間やエネルギーによって得たものが発酵し、大きな力になったり、思いがけない智慧を授けてくれた体験は少なくない。

ぶどう ワイン

生活即、ヨーガ

実は、佐保田鶴治先生のこの言葉は、私がある時期、仕事などの関連などで、「このような生活をしながら、果たしてヨーガができるのか?」と考え込んだ時期であったが、佐保田鶴治先生のこの言葉で、「『磁石』をしっかり持って、生活を含めた、今の自分の歩みで行けばいい」と思うと、急に気が楽になった。

 

生活とは、自分の根拠だから、そこを離れて自分はない。「生活から浮き上がるのではなく、生活に埋没するのでもなく、日々の生活の中で、ヨーガを続けることに意味がある」と、私は考えるようになった。しかしそのためには、『磁石磨き』は欠かせない。

 

大阪から東京へ行くのに、「東以外の方向へ行ってはいけない」というのでは、苦しくて現実的ではない。信念・磁石を持ち続けて、「北へ行ったり、南へ行ったり、時として西へ行ったりしながらいろいろな風景、人に出会いながら、東京へ行けばいい」という、佐保田鶴治先生のこの言葉は、いつの間にか、私の生き方のベースになっている。

もみじ

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佐保田鶴治先生の心に響く言葉1

アルジュナヨーガ研修会5周年記念。佐保田鶴治先生講演

アルジュナヨーガ研修会5周年記念。佐保田鶴治先生講演会

早いもので日本ヨーガ禅道友会の初代会長であり、アルジュナヨーガ研修会の顧問にもなっていただいた、佐保田鶴治先生に師事してから40年近く、先生が亡くなってから四半世紀もの年月が流れた。

佐保田鶴治先生からは多くのものを学んだが、ここでは先生の生きた言葉を紹介し、ヨーガの心を探ってみたいと思う。

先生の言葉の中で、最近一番強く思い浮かべるのが、以下である。

 

 

 

潜在意識(無意識)に影響を与えるヨーガ

ヨーガは、単なる体操ではありません。ヨーガには、壮大な哲学があります。

………

「腹を立てない」のではなく、自然に「腹が立たなくなります」

実は、これは考えている以上に、大きな問題です。

ヨーガを行っているうちに、潜在意識(無意識)が変化するのです。

このことによって、表面の心(意識)もきれいになり、境遇も変わります。

難しい病気に対する大きな力にもなります。

これが本当のヨーガの利益です。           『道友』26号より

意識は心の一部

私は20歳代後半からヨーガを始めたが、その数年前から心の仕組み(意識・無意識)に関心を持っていた。中でも、無意識へのアプローチは宗教的修行、特に過酷な修行を通してのみ可能になると考えていた。そのため、佐保鶴治先生のこの話を聞いたときは、正直「ヨーガの体操で本当に膨大な無意識を調えることができるのかな」と疑問に思った。

ユング派心理学者で京都大学名誉教授、後に文化庁長官になられた河合隼雄教授は、意識・無意識の割合は大まかに言って意識が1/7くらいといわれたと記憶している。他の先生の著書を読んでも、当時は同じだった。

最近、言われているのは、意識は5%程度という。

これは研究が進んで明確になったのか、あるいは、意識と無意識のボーダーラインが揺れて変化したのか、筆者には断言できないが、事件などで犯人が「何か知らないが、やってしまった」「そのとき、体の奥からの強い衝動に突き動かされた」などは、無意識からの発現と見ることができよう。無意識から上がるエネルギーは強力で、時には破壊的に働くこともある。もちろん、素晴らしい想像力を発揮する例も少なくない。

東洋の思想、【唯識】の視点に立つと、「無意識が調うと意識も調う」と考えることができる。これを進めると佐保田先生が言われるように境遇も変えるほどの影響を持つことになる。問題は、無意識を調えるための方法論である。佐保田先生の「本当のヨーガをすれば良い!」の解明は、長年、私の課題であった。

無意識を調える

合掌

合掌

「継続は力なり」というが、いつの間にか、私なりにこの課題の解決に向かっていたことに気づいた。

ヨーガの後、自修のときも指導のときも、終わったとの静謐な雰囲気が私は大好きである。そのためにヨーガをするといっても過言ではない。ある人は、「その時の空気がおいしい」と言い、「透き通った空気は貴重だ」といった人もいる。

佐保田鶴治先生の提唱された【ヨーガ禅】の具体的な形の一つがここにある。

ヨーガのアーサナ(体操)は、単なる体操ではなく、動くメディテーション(瞑想)である。具体的には、4つの原則、特に『意識を集中』を深めると、日常でまとわり着いたさまざまな雑念・ストレス、それから来る感情的な葛藤などが、結果として自然に枯葉が朽ちるように落ちていく。無理にとろうとして、逆にさらにべったりとくっつけたり、あるいは他の部分をも千切りとってしまうような無茶な方法ではなく、自然に無理なく気がついたら落ちていたという感じを持つことがある。これは、更に続けることによって、心の深い領域からの安定感につながるように筆者は思う。

無意識からあがるもの

表現としては静けさ・安心感・ゆったり感・肯定感・ひたひたと来る嬉しさや楽しさなど。

私だけではなく、受講生の方も感じることで部屋の雰囲気はすっかり変わる。

このことは意識だけではなく、無意識(といってもまだまだ意識に近い、浅い領域と思うが)も調いつつあると考えられる。なぜなら、これらの実感は客観的理由がないことなどで推測される。

一般に言われるように、外側から与えられる喜び、有形・無形のものをもらう(これも拒否はしないが)のではなく、今、ただ、ここにこうしていることが楽しい。ただそこにいる家族や友人がいとおしいという気持ちが、心の奥からひたひたと押し寄せてくる。自分や他者に対する原点での無条件の肯定も、ここにはある。

これらの心の変化は、意識だけで作り上げた世界では成り立たず、無意識からの調整が不可欠である。

このような状況が起こると、「類似の法則」に沿って人格の変容が起こり、境遇が変わったり、それまでは考えられなかった対処法、力を発揮することがある。

残念ながら、私の場合は、この状態を持続させることは難しいが、それは、私が「ヨーガの道半ばにいる」ということであろう。

然し道半ばとしても、多くの人がヨーガを行じ、たとえひと時でも心の平安を持つことができたら、この世はもっと住みやすくなるだろうと、おどろおどろしいニュースを聞くたびに、改めてそう思う。

統合医療への道1

2011年9月26日 Posted in 統合医療への道 Tags:

統合医療への道のりを考えるとき、母方の祖母の影響は大きい。祖母は、直ぐ上の仲の良い兄が医者のなったのもつかの間、夭折したのがショックで、当時(1910年代後半)数少ない看護婦になった。薬草などにも興味を持ち、待ち前の努力で、今で言う、代替医療の走りを自分なりに研究・実践していた。

鬼子母神

母は祖母の長女として生まれたが、ひどく病弱であった。当時の医学では良くなく見込みがないため、日蓮宗に帰依していた祖母は『鬼子母神』で太鼓をたたきながら町中を歩いた。

『鬼子母神』とは、インドに伝わる話によれば、初めハーリーティ(訶梨帝母)という夜叉で、1000人の子供の母だったが、しばしば人の子をとって食べていた。そこで、ある時お釈迦さまは彼女が改心するようにと、一番可愛がっている一番末の子の愛奴(あいぬ)を隠した。

ハーリーティは気も狂わんばかりにその子を探し回るが見つからない。お釈迦さまが現れて、「子供がいなくなるということがどんなにつらいものかわかったか。お前の今までの悪行を反省するが良い」と諭した。心を入れ替えたハーリーティは仏道に帰依し、子供を守り、安産をさせてくれる慈愛の仏、鬼子母神となった。

日本では、法華経では、鬼子母神は法華経を読誦し受持する神とされていて、鬼子母神を祀る寺としては、日蓮宗系のところが多い。

その後の母の健康

その後の母は、何とか、大病せずに成長した。これには、時代的背景(乗り物がないので、1時間くらいは歩くのが当然)、家庭環境(鰹節屋を営んでいたため食べ物には気を配る、衣・食など多くは手作りのもの)などが影響していると思われる。

様々な健康酒や体に良いとされる健康法を探る姿勢はそのまま、母に受け継がれた。

母は20歳過ぎに結婚し、私が生まれたが、私もまた、病弱であった。出産のときも「母が命を落とすか、私が死産か、二人とも無理かもしれない」といわれた中で、私が生まれ、母も何とか事なきを得たことは奇跡に近いことだったらしい。

この背景には、祖母の命がけの『祈り』があったことは言うまでもない。『祈り』は、最近では、米国を中心として代替医療(ここでは簡単に「西洋医学以外の医療」と述べるにとどまる)で注目されている。例えば2002年の米国(ミシガン州を除く)での調査では、代替医療利用状況は第1位「自身による祈り43%」で第2位は「他者による祈り24.4%」となっている。ただし、日本では現在、『祈り』の調査項目はない。

私の病弱な幼少期から成人へ

幼少期も私は、引き続き病弱であった。遠足や運動会の前には、いつも担任の先生が、「今回は参加できるか?」と尋ね、参加する場合も、叔母や祖母が付き添いという、今考えると、ご大層な身分であった(笑い)

このような私が、父の転勤で北海道の函館から大阪へ引っ越すことになった。周囲の反対・心配は大変なものだったらしい。北海道に比べるとかなり長い夏休みのほとんどは、大阪を離れて函館の母の実家で暮らした。

何が功を奏したのか、私は次第に元気になった。更に成長するにつれ、生意気にもなっていった。時にうんざりするほど祖母に言われた「ご先祖様を大切に」「丁寧に生きる」は、青春の真っ只中を行く私には、重く、うるさく感じられ、次第にこともあろうか、「現代の魔力」や「西洋科学のすばらしさ」に惹かれていった。

大学でフランス文学専攻、部活では現代文学研究会に所属し、卒業後には新聞社勤務ということも影響したかもしれない。しかしその後、大きな挫折を経て20歳代後半で私は「西洋から東洋へ」と大転換をすることになる。

例えば、「食物と血液」を研究し「病氣はライフスタイル(食生活・環境・心)の乱れによって発症する(食因説)」と言って、御茶ノ水クリニックを開業した、『国際自然医学会』会長の森下敬一博士、『血液腸管製造説』を提唱した岐阜大学の千島喜久男教授、大阪大学教授で『酸塩基平衡学』を提唱した片瀬淡博士、同じく大阪大学教授で『有害食品研究会』や後の『日本アーユルヴェーダ学会』を立ち上げた丸山博博士、『国際宗教・超心理学会』の本山博博士、京都精華大学名誉教授で『意味論』の研究や『アレクサンダー・テクニーク』を日本に導入した片桐ユズル教授。もちろん、ヨーガの恩師、日本ヨーガ禅道友会会長の、大阪大学名誉教授、佐保田鶴治博士との出会いの意味と影響は測り知れないほど大きい。

これらの『西洋から東洋への大転換』については、順次、次回以降でお伝えします。