~ヨーガは生き方のレッスン~ まいまい(昧舞)ブログ

アルジュナヨーガ研修会主宰 渡辺昧比のブログ
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佐保田鶴治先生の、心に響く言葉⑦

ヨーガ者として生きる

宮島 厳島神社

宮島 厳島神社

ヨーガ者という言葉は、佐保田先生の文章の中ではあまり見かけない。佐保田先生に師事した『ヨーガ教師第1期組』の私たちは、生きた言葉として当時、京都伏見桃山のヨーガアシラムで、日曜日の講義(『ヨーガの宗教理念』や『大乗起信論』など)の後、道友の質問から楽しく脱線(?!)した話の後や、アシラム1階での昼食やチャイタイムに「大事なことは、ヨーガ者として生きることやなぁ」という正に生きた言葉の謦咳に接した。これは、20歳代でヨーガを始めた私の「信念になった!」と後で思った。
佐保田先生の言葉によると、「私たちは決して『ヨーガ研究者』や『ヨーガ実践者』ではなく、『ヨーガ者』であるべきである」と言われた。『ヨーガ研究者』とは、言葉通りヨーガを研究する人であり、私たちはそれではない。また、『ヨーガ実践者』とは、ヨーガを実践する人で私たちもその中には入るが、それだけではない。
では、『ヨーガ者』とは何か?

長年の月日の流れで詳細な記憶がおぼろげになってきたが、私の独断と偏見を許してもらえるなら、『ヨーガに生きる人』であろうか?
私たちが行っているヨーガは、『ヨーガ・スートラ』を持ち出すまでもなく、ヨーガとは本来「心の働きを止滅させる」、少なくとも「心の状態を穏やかにする」ものである。
ヨーガを行っている時だけ、心が落ち着いていて、日常に戻れば騒がしいのではいけない。理想的に言えば、そのひとのヨーガが日常生活の中に生きていないといけない。
例えば『ヨーガ・スートラ』の8部門の最初には禁戒yamaがあり、その第1は非暴力とされる。非暴力は、あらゆる宗教の最初にランクされるが、単に「殺生しない」ことだけではない。物理的に殺生することはもちろんであるが、精神的に殺す(無視する・他者の立場を考えない・いなければいいと思う)なども範疇に入る。こう考えると、全くこの戒律を侵さない人はまずいなくなるが、自分のヨーガの段階に応じてこの戒律を守ろうとするのが、ヨーガ者である。
このように言うと、「世の中の多くの人が弱肉強食の中で、これでは他人につぶされる」という声も聞こえる。実際、私自身もこの種の問題に直面したことが数知れずある。その時は「何で、私が?」「どうしてこんなことが?」「あまりにもひどすぎる!」と憤慨したり、心騒がせたことも少なくない。
しかし結果的には、それに対し「目には目を!」ではなく、キリストの「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」まで行かなくても、心静かに時を待つ(これが実は難しい!)と思いがけないサプライズがやってくることを数多く体験した。
それは、自分の思いが通ることではない。相手が引っ込むことでもない。より自分に(理想的には相手にも)ふさわしい道の入り口に気づくことである。
このようなことが以前あった。かなり前の話ではあるが、ある瞑想の会に私は入ろうとした。しかし、そこに近づく度にトラブルが起こり、なかなか進めなかった。「どうして?」「なんで邪魔される?」と悩み、嘆いた。しばらくしてそこでの入会が可能になったとき、それまでのやり方がすっかり変わり、以前の入会者たちは新たにテキストを購入し、新しい方法を再び学びなおすことになった。
その時ある人が私に言った「ちょうど、変わった時に来てよかったね。この時を待っていたのね」この種のことは、少なくない。
私たちは、うまくいかないことがあると、相手に邪魔されると思ったり、落ち込んだりするが、そういう挫折の時こそ、自分がしているヨーガを生かし、道が拓かれる解決のチャンスをゲットしたい。
ことばを変えると、佐保田先生が言われた『ヨーガ者』へ近づきたいと思う。

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